【クソ雑記】 “長文が読めない” のは書き手が悪いのか読み手が悪いのか

たまゆら

子供には本を読ませましょう(一行で終了する記事)

「なげえよ3行でまとめろよ」

古のインターネッツから脈々と受け継がれるこの言葉。

古事記の第一章に「半年ROMれ」「ggrks」と並んで書いてあるくらいなので正しいのかもしれませんが、通算20年くらい長文雑記ブログを書いている身としては少々寂しくも思います。

長文は読まない、長文は読む気がしない、という方の主張でこんなものを見かける事があります。

  • 書き手のスキルが低いから長文になっている
  • 長文は要点がハッキリしていないので読むに値しない
  • 読めない俺が悪いんじゃない 長文を書くやつが無能

まるで長文を読まない事を誇りにさえ思っているようです。短文マウント?

もちろん全員が全員ではないでしょうけど。

あ、「私のブログは素晴らしい長文だから読めないやつが悪い!」とかそんな事言っているわけではありませんので、念のため。

文章には情報性の文章と娯楽性の文章(と、ここみたいな生産性の無い文章)があります。

たしかに情報性の文章に余分な文字列がワンサカと付いていたら必要な情報に辿り着きにくいと言えますが、それは読んだ上で判断するべき事で、読む前から「長いから読まない・読む価値が無い」とバッサリ切り捨ててしまうのは機会損失ではないでしょうか。

そんなに忙しいの?3行超の長文を読む時間が惜しいほど忙しいの?だったら仕方ないですけど。

私にはどうしても、書き手が悪いとか文章の質が低いとか関係無くマジで3行以上の長文が読めない人がいるのではないかと思えてしまいます。

脳が長文を拒否している事実を「長文書くやつは無能だから読む価値無し」と置き換えて自己肯定感を確保しているのではないかと思えてしまいます。

もちろんTPOというのはあって、ブログ記事が1行で終了していたらなんやねんコレってなりますし、2chの一般的なスレで超長文は空気が読めていないと言わざるを得ません。

しかしTPOを弁えていない書き手がいる事と長文が読めない事は別問題だと考えます。

とは言っても長文が読めないのも仕方のない事かもしれません。

私たち世代(30代後半)でも早い人は小学生高学年から2chという短文文化にドップリ浸かる機会がありましたし、最近の若い子はSNSの発達により言わずもがな。

本人が悪いわけではなく、環境の変化ですね。

環境は変化しても世の中から長文が無くなるわけではありません。

もちろんこんなクソ雑記長文ブログを読む必要は無いのですが、社会に出れば仕事や行政書類等で長文を読む機会はいくらでもあります。

この時に脳が拒否反応を示すようでは辛いのは本人です。

長文をストレスなく読める人と頑張らないと読めない人、どちらがいいかって選択肢として幅が広い方がいいに決まっています。

SNSを断つというのは難しい時代ですが、子供にはせめて並行して面白い本をたくさん読ませてあげたいなと、長文に慣れさせてあげたいなと、そんな事を思った晩夏の一日でした。

嫌すぎますよ、子供がたった3行超の文章に対して「長文乙」とか煽ってたら。

と、ここで締めようと思ったのですが追記です。

やはり現代人は忙しいのだと思います。

仕事も家事も忙しけりゃ娯楽にも忙しい。

SNSにソシャゲにネットニュースのチェックに推し活にとタイパタイパタイパタイパ。

そんな中で “仕事以外の長文をじっくり読んで書き手の意図を理解する” なんて限られた可処分時間・可処分気力を消費する行為は、今の時代は酔狂な趣味に分類されるのかもしれませんね。

時間もそうですけど気力が残ってなさそう。

Q. “長文が読めない” のは書き手が悪いのか読み手が悪いのか?

A. 時代が悪い。

だからこそ、長文を読めるスキルは今後役に立つかもしれないと思う次第です。

「え?お前長文なんか読めるの?スゲーじゃん結婚して!!」って時代が来るかもしれません。

この小説、子供がハマっていました。他シリーズも買ってみようかな。

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